【非暴力・不服従】ガンジーとキング牧師

あなたはもし銃をつきつけられ奴隷になることを強いられた時どうしますか。

服従し奴隷になる
銃を取り敵を倒す

だがどちらでもない第三の方法によって奇跡を起こした人物が居る。インド独立の父マハトマ・ガンジー。巨大な力でインドを植民地としていた大英帝国に対し武器一つ持たないガンジーがとった第三の方法。その現場を目の当たりにしたUP通信の記者は世界にこう伝えている。

「警官隊は頭をめがけ棍棒の雨を降らせた。だが行進者はただの一人も手で防ごうとはしなかった。誰もが打ちのめされ殺されるかもしれない事を察していたが躊躇したり怯えたりしたりする様子は全くなかった。それは争いではなかった。それはただ行進者たちが打ちのめされるまで前進を続けるだけだった」

非暴力・不服従運動。決して暴力を振るわず、しかし支配者に服従せず人間としての自由と尊厳を手にするため積極的に己の原理を主張する。それこそガンジーが見つけた第三の方法だった。

ガンジーの説くつらい茨の道を歩まねばならなかった民衆達。だがガンジーがこの世を去った時、彼らがいつまでもその亡骸から離れようとしない姿を見たアメリカのジャーナリスト、ジョン・ガンサーはこう漏らさずにはいられなかった。

「ガンジーは、なぜこんなにも多くの人々の心を捉えていたのだろうか。ガンジーは奇跡の人である」

(ジョン・ガンサー著『アジアの内幕』より)

そして1960年代のアメリカにも奇跡を起こした人物が居た。マーティン・ルーサー・キング牧師。リンチ、虐殺、リンカーンの奴隷解放宣言以降も黒人を人間扱いしない差別が公然と行われていたアメリカ。そんな中キングも一切暴力を使わない戦いを挑む。黒人が白人と平等の権利を結ぶ、公民権法を成立させた。

キング牧師「私は、夢があるのです。いつの日かアラバマ州で幼い黒人の少年少女が幼い白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなぐことができるようになるという夢が今日、私には夢があるのです」

力と力が激突し力こそ正義だった20世紀。しかし世界各地では今この瞬間も血みどろの戦いが繰り広げられ憎しみが新たな憎しみを生んでいる。だがそんな中力に訴えることなく非暴力という全く新たな方法で自由を勝ち取ったガンジーとキング。武器一つ持たずに巨大な力に打ち勝った非暴力の力とは何だったのか。そして彼らは21世紀を迎える私達に何を問いかけているのだろう。


アルン・ガンジー「私は南アフリカで生まれ育った。子供の頃から度々白人に殴られいつか復讐してやろうと思ってました。そんな私を両親はインドに居る祖父ガンジーの元へ渡らせたのです。ガンジーはこう言いました。『怒りが生じたら日記に記しなさい。しかし怒りをそのままぶつけるのではなく、どうして怒りが生じたのか。そしてどうすれば怒らずににすむか、その解決方法を書きなさい』」

インドを植民地支配していた大英帝国に対し何一つ武器を持たず完全と立ち向かい独立を勝ち取ったガンジー。だが若き日のガンジーはイギリス紳士になろうとしていた。父が小さな王国の大臣を務めるような裕福な家庭に生まれたガンジーはイギリス式の学校の通い白人から差別を受けることなく育つ。やがて18歳の時には弁護士の資格を取るためイギリスに留学。ガンジーにとってすぐれた文明や力を持つイギリスがあこがれだった。

留学して5年、弁護士の資格を取りロンドンの法定にも立っていたガンジーにある仕事が舞い込んでくる。行き先ははるか南アフリカ。当時南アフリカには出稼ぎのインド人が15万人もいながら彼らの面倒をみる弁護士が一人も居なかったのである。胸をときめかせ新天地に向かうガンジー。だが

車掌「ここは一号車だぞ」

ガンジー「切符がある。一等だ。弁護士モハンダス・ガンジー。ロンドンの法廷にも出た」

生まれて初めて味わった屈辱的な人種差別。だがそれは始まりに過ぎなかった。ガンジーが街の通りを歩いていると

「この道は白人専用だ!」

それは白人専用の道路だった。そして宿に泊まろうとすると

「有色人種お断り」

ガンジー「私は一晩中考えた。すぐにインドに逃げ帰るべきか。それとも依頼を受けた仕事だけは終わらせてインドへ帰るべきか。それとも権利のために戦うべきか」


ガンジーは南アフリカに住み着くことを決意、弁護士としてインド人を救う地道な仕事を始める。だがそこで見たのは白人雇い主に奴隷同然に働かされ家畜のように暴力を受けながらただ耐えるしかない同胞の姿。やがて仕事で彼らを弁護するガンジーの家は駆け込み寺のようになっていく。悪質な雇い主から彼らを開放する手続きに追われる日々。弁護士としての報酬も仕事を失った者たちのために消え、いつしか10年もの月日が過ぎ去っていた。だがガンジーがいくらがんばった所で差別をなくす根本的な解決にはならなかった。そんな中ガンジーを愕然とさせる事件が起きる。

ガンジー「私は政府広報に発表された法案を読んで身震いがした」

アジア人登録法

8歳以上の全てのインド人は、指紋を提出し、登録書を常に携帯しなければならない。違反者は無条件で投獄、あるいは南アフリカから追放

それはインド人に家畜と同じ登録書を付け全ての権利を奪う。後に暗黒法と呼ばれる法案である。

ガンジー「それは南アフリカのインド人の絶対的な破滅を意味していた」(1906年8月22日付け、トランスヴァール官報)

一体どうすれば自由を手にすることができるのか。自分達が力に訴えても白人は我々に復讐し争いと憎しみが果てしなく続くだけだ。力に訴えることなく差別をなくす方法はないのか。その時ガンジーの脳裏にある子供の頃の記憶が蘇ってきた。

それは15歳の時のことだった。思春期の好奇心に負けたガンジーは密かにヒンズー教で禁じている肉を食べ兄の腕輪から金を削り取りお金に変えていた。こうした悪事は誰にも気づかれなかったが次第に心の重荷となり、ついにあるよ全てを告白したノートを父に差し出したのだった。どんな体罰を受けるのか。もうぃ小さくして待つガンジー。何も言わぬ父を見あげてみると。

ガンジー「私は父の心の中の葛藤がよくわかった。あの真珠の涙が私の心を清々しくし私の罪を洗い流してくれた。それはこのような愛を体験した人だけが知る感動である」

あの時の父のように自分の怒りを捨て相手の心を信じて訴えれば白人の心を動かせるかもしれない。インド移民のリーダー的存在になっていたガンジーは呼びかけた。「不当な差別を法律化した暗黒法に従うことはできません。我々を家畜扱いする登録証を焼き捨て悪法にあは服従しないことを政府に示しましょう。それで彼らは我々を罰するのであるば喜んで受けようではありませんか。我々が求めるのは争いではなく人として当然あるべき平等な権利なのです」

警官隊が目を光らせる中先頭を切って登録書を炎の中に投げ込むガンジー。暴力に怯える者、反対に復讐を唱える者。だがガンジーはその双方にこう言った。

「私は一切抵抗しない。殴られ私が苦しむことで彼らは不正を悟ります。時に彼らは私を殺すこともあるかもしれません。しかし彼らは死体を手にすることはできても服従は手にできないのです」

ガンジーは何度も投獄されるが出獄する度に同じ運動を繰り返す。これに対して白人は飽くまで力で押さえつけようとした。だがやがて怯えていたインド人の中にもガンジーと行動を共にする者が現れる。ガンジーが4回めの投獄を受けた時、刑務所は登録書を焼き捨て逮捕されたインド人で入りきれなくなっていた。

ナレン・マントリ(ガンジーの孫弟子)「ガンジーは一人にできることは万人にできると信じていました。そして何をするにもまず自分で試し自分でできない事は人に勧めませんでした。だからこそあんなに多くの人々が彼についていったのです。」

更にガンジーは新聞「インディアン・オピニオン」を発行。不当な差別を世界中の世論に訴え海外からも南アフリカに対する批判の声を高めていった。そして運動開始から8年、ついに暗黒法を廃止させたのである。何一つ武器を持たず勝利を収めたガンジーはこの非暴力・不服従の戦いをサティアグラハ(真実の力)と名づけた。

ガンジー「サティアグラハとは決して諦めない事、そしていかなる場合も決して敗北を受け入れない事なのです」

南アフリカでひとつの役目を終えたガンジーは22年ぶりに母国インドへ帰国。すでに45歳になっていた。だがそこでガンジーを待っていたのはひどい飢えに苦しむ3億の同胞だった。圧倒的な武力によるイギリス人の不当な支配に土地を奪われ仕事を奪われ、反抗する気力さえ失い怯えきったインドの人々。ガンジーにとって南アフリカ時代より更に大きな力との戦いが始まろうとしていた。


インドに帰国して4年、政治運動の首脳に加わったガンジーの起こした行動にイギリス政府は我が目を疑った。3億の全インド国民が仕事をボイコット。バス、列車、工場、イギリスが支配し莫大な利益を吸い上げていた国の全てに機能が完全に停止したのである。それはインド国民のイギリスに対する不服従の表明であった。あせったイギリスはガンジーを逮捕するが一度自分たちの力に目覚めた民衆の勢いを止めることはできなかった。ガンジーの逮捕に反発した民衆の運動は怒りの暴動へと発展、ついにはイギリス人を殺害してしまう。これに報復すべくイギリスも軍隊が出動。そして1万人の集会参加者ヘ無差別別発泡。集会に参加していたインド人を懲らしめるという理由だけでわずか10分間に1200人もの命が奪われた。3600人が負傷。

ガンジー「私は、ヒマラヤの山より大きなあやまちを犯してしまった。非暴力・不服従運動の深い意義を徹底的に理解してもらうべきだった」

ガンジーは非暴力運動の停止を宣言。そして政治の表舞台から姿を消す。

一体どうすれば全ての人々に非暴力を正しく理解してもらえるのか。やがてガンジーがとった行動に世間はあっと驚いた。ガンジーがインドでは見ることも触る事も汚れるとされていた不可触民と共同生活を始めたからである。インドでは日本の士農工商と似たカーストという身分社会が3000年近く続いていた。その身分は主にバラモン(司祭階級)、クシャトリヤ(王侯・武士階級)、ヴァイシャ(商人階級)、シュードラ(農業、手工業者など)と分けられ、さらにその下に不可触民(乞食、汚物清掃)が属し、人間扱いされない差別を受けていた。しかしヴァイシャに属するガンジーは共同生活を営むだけではなく不可触民の子供を養子に迎え彼らの仕事とされていた便所の掃除まで行ったのである。

ガンジー「憎悪や不可触民制度が残るならばヒンズー教は滅んだほうがましだ。罪を犯す者だけが不可触民なのです」

インド人が黙って差別に服従してきたのは自分たちも意識せずに差別を行っているからだ。そう考えたガンジーは、まず人土人の中に潜む差別意識をなくそうとしたのである。そして彼は不可触民をこう呼んだ。“ハリジャン”(神の子)

アルン・ガンジー「祖父ガンジーはこう言っていました。『不可触民の人々はあらゆる苦痛を経験してきたが故に“神の子”と名乗る権利がある。しかし他の人々も差別をやめ心からすまなかったと思えば同じ神の子である。ただしそれは法律で決める物ではなく一人一人が気づいて自主的に行わなければ何の意味もない事なのです』

インドの宗教のタブーを破ったガンジーは危険思想を持つ人物として何度も命を狙われたがその姿勢を変えようとはしなかった。やがて人々が差別意識に目覚めたのを感じとったガンジー次に目指したのは貧しさの開放だった。イギリスはインド人に作らせた綿をただ同然に奪い取ったうえ工場で作った綿織物を売りつけ僅かな金さえ奪っていた。ガンジーはその状況を打破するため人々にこう訴えた。

ガンジー「イギリスの工場で作られた服を買うことをやめましょう。もし、そうなら裸の方がましだ。自分の布地は自分で作るべきなのです」

イギリスに支配される前は、どこの家庭でもやっていたように糸紡ぎぐるまで自分の服は自分で作る。民衆はそれが収入をもたらしてくれるばかりかイギリスに大きな損失を与えると気づくと次々とイギリス製の綿織物に火を放った。

ナレシ・マントリ「ガンジーは一人一人の自立こそ独立運動に必要な物だと考えていました。そして精神的に自立するためにはまず経済的な自立が必要だと思っていたのです」

ほんの少し前まで家で誇りをかぶっていた糸紡ぎ車はいつしか死が満ちるように国中に広まっていった。そして人々は糸紡ぎ車をインド独立のシンボルとして掲げたのである。だが中には法律でインド人が作ることを禁じている物もあった。塩。イギリスは塩の製造を禁じた飢え売るときには高い税金をかけていたのである。

塩を我々の手に取り戻しインド人の自由を取り戻そう。60歳になっていたガンジーは人々の先頭に立って行進を開始した、目的地は300キロ南のインド洋。行進の途中の村々でもガンジーは塩の持つ意味を説き続けた。

ガンジー「私は法を無視するのではありません。人間の存在から響いてくる最も高い法すなわち良心の声に従っているだけです」

最初数で始まった行進はつしか数えきれないほどの大集団を化していた。行進を始めて24日。遂に海岸に到着。ガンジーは塩をひとつまみ拾い上げるとその手を高々と掲げた。

一方政府は法律を破り塩を作ったガンジーを逮捕、騒動を収めようとした。だが人々は塩作りをやめようとはしなかった。“塩”という言葉は魔法のように広がり国中の海岸で塩をすくい鍋に入れた。更に目覚めた民衆はイギリスが管理していた製塩所を取り戻そうと押し寄せた。そして民衆はガンジーが共に心の中に居ると唱え一歩を踏み出した。

ガンジー「暴力は何も解決しません。愛、お互いを信頼する心、理性が問題を解決します。みんなが共存することが大事なのです」

アルン・ガンジー「祖父ガンジーはイギリス人が敵だとは思ってはいけないとよく言っていました。イギリス人が敵なのではなく彼らの考え方が敵であり問題さえ解決すれば必ず良き友人になれると言っていました。暴力は個人を攻撃するだけで結局何の解決にもならないのです。非暴力は問題そのものを攻撃するのです」

非暴力運動が全国規模の広がりを見せる中第二次大戦が勃発すると民族独立の気運が高まっていく。そしてかつては服従することしか知らなかったインド国民も見違えるようになった。静かだが決して屈することのない魂の叫び。やがてそれはイギリス人の心をも揺さぶるようになっていた。

終戦から2年後の1947年、ついにインドは支配者であったイギリスを撤退させた。独立の瞬間首都デリーは喜びを爆発させる民衆達があふれかえり、更には“インド万歳”の声がこだました。そして人々は口々に叫んだ「自由だ!遂に我々は自由だ」


インド独立の晴れの式典、そこでは独立の父ガンジーを称えるスピーチが行われていたが当のガンジーの姿はなかった。念願の独立の日は一つの国だったインドが二つの国に引き裂ける日でもあった。ヒンズー教徒イスラム教徒は共に非暴力運動を闘いながらイギリスがインドを去ると古くから続く宗教上の争いを始めガンジーの和解の呼びかけにも関わらずビンズー教徒の国インドとイスラム教徒の国パキスタンに分かれて独立することになった。

「望むなら私を二つに切りなさい。しかしインドを割ってはいけません。」独立の式典が行われているまさにその時ガンジーは流血の嵐の中に居た。その日国境では1500万人の人が自分の宗教の国へと大移動していた。しかし家も土地も仕事も捨てなければならなかった移民たちの怒りはすれ違う各地でも爆発、血を血で洗う惨劇が繰り広げられていたのである。やがて憎しみの塊と化した両者が対立は、インド全体が発狂したかのような内戦状態へと突入。犠牲者は60万人を超そうとしていた。

ヒンズー教徒とイスラム教徒による死者60万人にも及ぶ血みどろの内戦。77歳のガンジーは争いをやめさせようとまるで巡礼者のように民家を一軒一軒訪ね訴えた。

ガンジー「私はヒンズー教徒であり、イスラム教徒であり、キリスト教徒であり、ユダヤ教徒です。枝は違っても皆同じ一つの木なのです」

だが必死の巡礼も発狂した3億の怒りの炎を消すことはできなかった。遂にガンジーは最後の手段に出る。全てのインド国民が争いを止めるまでと死ぬまで続く無期限の断食へと入ったのである。だが家族や仲間を殺され復讐の鬼と化した民衆にこの思いが届く気配はなかった。朝も夜も内戦の銃声が轟く中日に日に衰えていくガンジー。ガンジーの目の前に一人のヒンズー教徒が現れたのは断食5日目の事だった。彼はこう告白した。

「私はイスラム教徒に子供を殺され復讐にイスラム教徒の子供を殺してしまった。今更戦いをやめても神は許してくれない」

ガンジーはヒンズー教徒の男にこう語りかけた。

ガンジー「地獄から抜け出す方法がひとつだけある。両親を失った子を自分の子として拾い育てるのだ。ただしイスラム教徒の子供をイスラム教徒として育てるんだ」

いつにない静けさの中ガンジーが目を覚ますとその先にはガンジーを見守る大勢の人々の眼差しがあった。自分の命を顧みないガンジーの姿にヒンズー教徒とイスラム教徒の指導者が遂に争いを止める事を誓い国中の内戦が停止したのである。数日後ガンジーは両脇を孫娘に支えられ人々の前に姿を現した。争いがやんだ感謝の祈りを捧げるためであった。だが。

犯人はイスラム教徒にも分け隔てしないガンジーを逆恨みした狂信的なヒンズー教徒。倒れこむガンジーの両手は犯人に向かって合掌されていたという。

アルン・ガンジー「祖父ガンジーはいつもこう語っていました。『我々人間はどこへ行こうとも人々の心に平和と非暴力の種を巻き続けることに命を捧げなければならない』」

1948年1月30日。マハトマ・ガンジー永眠 享年78。


ガンジーの死から7年経った1955年、インドからはるか離れたアメリカで一つの小さな事件が起きる。その日黒人女性のローザ・パークスは座席が白人用と黒人用に分けられたバスに乗っていた。だが白人が彼女に席を立つよう要求、これを拒否したため逮捕されたのである。これに対し黒人たちは彼女を無実にするための集会を開いた。そのリーダーに選ばれたのが若干26歳の無名の牧師だった。マーティン・ルーサー・キング牧師。一体どうすれば黒人女性の無実を勝ち取ることができるのか。キングの頭に浮かんだのは学生時代に読んだ本だった。著者の名はマハトマ・ガンジー。

アトランタの黒人教会の牧師の子として生まれ“この世の差別は諦め天国での幸せを祈れ”と教えられたキングだったが激しい差別を受け白人を憎んでいた。そんなキングがガンジーの非暴力運動を知り激しく魂を揺さぶられたのはガンジーが暗殺された二年後のことだった。

キング「非暴力抵抗の方法は、正義と人間の尊厳のための戦いにおいて最も有効な武器です。マハトマ・ガンジーはそれを自分の人生で証明しました」

しかし少数のイギリス人が支配していたインドと多数の白人が支配するアメリカではあまりに状況が違いすぎた。白人の秘密結社KKKによる暴力の嵐、リンチ、吊るし首。リンカーンの奴隷解放宣言後もアメリカ、特に南部では元奴隷の黒人に対する差別が公然と行われていたのである。自分の決断で多くの黒人が殺されるかもしれない。しかしこのままでは何も変わらない。考えに考えた末キングは決起集会でこう呼びかけた。

キング「皆さん、人種隔離バスの不正に対し非暴力で抵抗し、二度と人種隔離バスには乗らないと決意するのです。我々は間違ってはいないのです」

だが白人の暴力に怯えきっている黒人たちが果たして立ち上がってくれるのか。バスボイコット運動の決行の前夜キングは眠ることができなかった。そして翌日、運命の朝一番のバスがキングの家の前にやってきた。

白人の仕返しを恐れず黒人は立ち上がってくれるのか。バスボイコット運動を呼びかけた翌日朝一番のバスがやってきた。いつも黒人でいっぱいのバスに誰も乗っていない。二回目、三回目のバスも。そして空っぽのバスの後大通りを晴れ晴れとして顔で歩く黒人たちがやってきた。この成功は抑圧されていた黒人の心を捉え運動は一気に全米各地への広がりキングも確かな手応えを感じていた。

しかしキングの自宅の爆破。KKKによる犯行だった。白人への復讐を叫ぶ黒人群衆たち、だがキングは興奮する群衆にこう言った。

キング「我々はたとえ暴力を受けても決して暴力で報復はしないのです」

そして約一年に渡り乗車ボイコット運動を続けた結果人種隔離バスは廃止されローザ・パークスは無実を勝ち取った。だが食堂、学校、図書館、様々な人種隔離差別は依然昔のままだった。キングは黒人が白人と全てにおいて平等な権利を持つ公民権法の成立を目指し非暴力・不服従運動を全米に広げていく、しかし無許可で行進したキングを逮捕しようとする警官。キングはひざまずき祈った。思いは通じなかった。白人は飽くまで黒人を力で押さえつけようとしたのである。だが出獄したキングは再び行進を開始する。アメリカでも最も差別が激しいバーミンガムで平等を訴える黒人たちの行進。彼らを待っていたのは。黒人に噛み付く警察犬。黒人を吹き飛ばす放水。デモに参加していた黒人たちは白人の警官に殴られ次々を逮捕されていく。そして行進していくキング達の前にも警官隊が立ちはだかった。張り詰めた空気の中にらみ合いが続く。

キング「非暴力主義の奥底には、命を捧げられるほどいとしくて、貴くて、永遠に真実な何かがあると確信する」

上官の命令を無視し黒人に道を譲る警官隊。それは黒人の思いが白人の心に伝わった瞬間だ。

マイケル・ネグラー「この様子は全米に報道されました。暴力に対し、非暴力で耐える姿が加害者であった白人たちの心を呼び覚ましたのです」

34歳になったキングは全米に黒人の平等な権利を訴える大集会を呼びかけた。その日キングの前に集まった観衆は25万人。その中には6万人の白人も含まれていた。

キング「私には夢があります。いつの日かジョージア州の赤土の丘の上でかつての奴隷の子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが共に兄弟愛のテーブルにつくことができるようになる、という夢が。私には夢があります。いつの日か私の幼い4人の子供が肌の色ではなく人格そのものによって判断される国に住むようになるという夢が。今日、私には夢があるのです。我々は、かの日の到来を早めることができるのです。黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人もプロテスタントもカトリックも全ての神の子たちが手に手をとってあの古い黒人霊歌を口ずさむことができる日の到来を。とうとう自由だ!やっと自由だ。全能の神に感謝せん!」

バスボイコット運動の開始から9年、1964年7月2日。ついに公民権法が成立、黒人たちは法律上白人と平等な権利を勝ち取った。しかし、1968年4月4日。キング牧師暗殺。黒人差別の枠を超えベトナム戦争に介入したアメリカ政府を強く批判した直後の出来事だった。キングは死の2ヶ月前死の訪れを予感していたかのようにこんな言葉を残している。

キング「もし、私の最期が来たら長い葬式は要らない。その日こう話してほしい。マーティン・ルーサー・キングは生涯人に仕えたと。マーティン・ルーサー・キングは他者への愛に生きたと。それ以外はつまらぬ事だ。私は金を残しては逝かない。しかし悔いのない人生だけは残していきたいのだ。道の途中で私の言葉や歌が誰かを助け元気づけ正しき道への導いた時初めて、私の生に意義があったと言えるのだ」

1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キングJr.永眠 享年39

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~ by skashima on December 6, 2014.

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